80年代を記録しておきましょう -神奈川大学 04

闘争課題1

 

「闘争課題」、この表現の仕方は正しくないように思いますが、いちおう、これでいきます。

神奈川大学学生運動グループが取り組んでいた学内問題や社会問題ですね。

学内問題、、、ない!(笑)。というか、あまり覚えていません。

学外のほうが多かった気がします。なぜだ!?

本来、やはり学内の問題にウエートを置くべきなのではないでしょうか、学生の本分としては。

私はこう考えます。先輩方、いわゆる全共闘以降の動きになると思いますが、基本的な部分はほぼ解決してくれていたのではないかな、と思います。さすが神大の先輩たちです。

神奈川大学全共闘の資料を拝見したことがあります。「米田体制打倒!」とか書いてあり、日大ほどではなかったと思いますが、右翼学生のテロとかもその当時はあったと聞きます。そのような中で、反帝学評(解放派の学生組織)を中心に相当頑張って手に入れた学園民主化だったのだと思います。

1960年代の後半の神奈川大学民主化闘争の中で、応援団が(おそらく右翼学生と一体となって)学生運動つぶしに動いたことから、80年代当時でさえも「応援団」は禁止されていました。

なんだか、応援指導部とか、たしかそんな名前でしたね。かわいそう。

繰り返しますが、そのような先輩方の体を張った戦いが、自由な校風を育んだのでしょう。自由っていうのも、まあとらえ方ですけどね。

学内問題といえば、Ⅱ部学友会が大学側の規制や各種対応について色々と批判し、定期的に学生課の窓口に行って交渉を繰り返していました。その姿は鮮明です。「お~やっとる!」って感じです。

あと、19号館問題。「サークルボックス」の記事でも述べた、いわゆる部室の学外移転の問題。

大学当局はうっとおしい自治会やサークル等を学外に追い出したいと思っていましたから。でも、結局大学生協がどういう経緯かは知りませんが、正門横からこの裏門はじの19号館に移転し、批判をあびていました。まあ、生協はたくさんの職員を抱えていたし、背負っているものが違いすぎるから、大学側との妥協点を見つけるのは当然でしょう。

それと原理研究会の公然登場ですかね。あの頃、統一協会(教会、ではありません)の学生組織である原理研究会は、各大学キャンパスへの食い込みを狙っていました。もっとソフトにやればいいものを、大学当局と一体となって、学生運動つぶしの片棒を担ぐようなこともやっていました。

明確に反共を掲げる勝共連合とか、そういう右翼的な政治団体とも一体でしたし。

神奈川大学には、この勝共連合の幹部と言われたK教授という人がいました。K教授が学長選に出馬すること、そして、原理研究会を学内に手引きしていること、さらに原理研が学内で講演会を開催することなど、1987年はキャンパスが燃えました。久々の機動隊導入。また、これは別の項で詳しくですね。

学内問題はこういう感じでしょうか、、、。

学外では、三里塚、狭山、国鉄民営化、寄場、天皇パレスチナなどの新左翼らしい話題から、反核・反原発環境保護スパイ防止法など市民運動系など幅広い課題がありました。が、後の、若者が「仕事よこせ!」とサウンドデモで闊歩するようなはなかったと思います。まだまだ、バブバブでよい時代です。

1985年、中核派が主体となった三里塚闘争のいわゆる「10・20」と、反国鉄民営化反対の浅草橋駅襲撃はかなりのインパクトがありました。私は、けっこう興味本位で「おっーーー!すっげーーー!!」とか思って見ていました。国鉄民営化によって、多くの労働者が職場を追われました。国鉄当局に反抗的な組合に所属する労働者がビシビシきられていったと聞いています。

それと狭山闘争です。1963年、被差別部落に住む青年が、埼玉県狭山市で起きた誘拐・殺害事件によってでっちあげ逮捕された問題。警察の取り調べで「やったことを認めれば、懲役で済む」と騙され、“自白”した結果、裁判では死刑判決を言い渡されたという事件です。裁判の透明化が必要、なんてことはこのころからずっと言われていることですね。この青年を犯人に仕立て上げようという警察の見込み捜査は、相当ひどいものがあったようです。

また、東京・山谷で、日雇労働者組合の指導的立場の方が右翼・暴力団に刺され、また銃撃され亡くなられたということもありました。“日の丸か!?、赤旗か!?”と、究極に突き詰めた戦いが日本にもあったのです。

そして、1989年の昭和天皇崩御が、1つの頂点であったのだと思います。

1987年の沖縄国体の際、地元民が日の丸を焼き払い、大きな話題となりました。

そこから連なっていった天皇崩御です。

そして、1991年のソ連崩壊ですね。

まあ、バブルに浮かれる裏で、現実的には死ぬほどたくさん考えなければならない問題が横たわっていて、われら日本人はたくさんそれを見過ごした、ということでしょうか。