80年代を記録しておきましょう -神奈川大学 03

学内勢力図

 

やはりこれですね(笑)。

※筆者註=以下、おおむね「解放派」は「解放派・狭間派」を指し、「労対派」は「解放派・労対派」を指します。

すべてが学生運動とは言い難い面もありますが、「学友に対して自分達の考え方を訴え、大学の何かを変えようとすること」が学生運動と定義すれば、様々な学生運動グループが存在していたことは事実です。

すでに記述しているように、まず解放派の皆さんが全学自治会を掌握し、まあ恐怖政治を行っていました。恐怖政治といっても、この時期は自分たちと思想信条が違うグループに対し、あからさまに嫌がらせをしたり、暴力を振るったりということは無かったと思います。まあ、統一協会/原理研の諸君はかなり殴られていたみたいですけどね、これは当然。

しかし一方、他のグループもいちおう解放派の存在をすごく気にしていました。「それについてはアオカイ(青ヘルの解放派の意味)に文句言われそうだし、控えとこうか」という雰囲気がありました。自粛ですね。

たとえば三里塚闘争については、解放派は北原事務局長のグループを支援していましたから、もう一方の熱田代表のグループの集会に行っている、なんてことは学内では公然と言えませんでした。実際には、熱田代表が招集する集会に行っている学生はいましたが。

さらに言いますと、外部の政治勢力とつながっているグループは、他にもありました。

まず解放派の「労対派」もしくは「全協」といわれる方々。1981年に学内おいて、解放派・狭間派と解放派・労対派の激突があり、労対派が負けました。もともと同じ解放派内の争いですので、いわゆる「内々ゲバ」です。労対派(「ご老体」なので負けた、なんてギャグもありましたが)に所属する人は、この80年代中盤にも学内で目立たぬよう活動をしていました。

1981年頃の労対派グループの動きは外部サイトで確認できます。

https://sites.google.com/site/nagato0326/lsy_home/routai

神奈川大学がこの内々ゲバの主戦場であったことがはっきりと分かります。

また、毛沢東派の方々。これは書いていいですかね、中国研究会ですね。いかにもわかりやすい。

それと日本共産党の民主青年同盟、略称「民青」。これは社会科学研究会です。

あくまで当時の話です。いま学内に同名のサークルが、あるかないか分かりませんが、もう30年以上経過しているので、当時とは関係ないはずです。念のため。

そして、「ノンセクト」と呼ばれる方々。外部の政治党派等の指導を受けず、独立独歩のグループです。Ⅱ部学友会(夜の戦線)、学生法学会、Ⅱ部サークル連絡会議、という感じですか。この3チームは共に、横浜寿町の日雇い労働者の労働組合と接点を持っていたようです。

ノンセクトは上部団体を持たないため、党派の皆さんにいじめられやすいです。まあヤクザの世界と同じでしょうか。チンピラ(→ノンセクト)は本職のヤクザ(→解放派)と比べ格下、みたいな。

もう少し言うと、Aという政治グループは、A以外の政治グループが学内にいることを極端に嫌うわけですが、ノンセクトはいわばアマチュアですから、解放派も多目に見ていました。それと、解放派神奈川大学ノンセクトも、大きなジャンル分けでは、「新左翼」と呼ばれる同じ穴のムジナです。そういうこともノンセクトがある程度は、自由に動ける要因だったのでしょう。

ただ、社会科学研究会(日本共産党)や中国研究会(毛派)、それ以外の大きな政治勢力が真剣に学内に登場しようとしていたのであれば、きっと解放派の諸君も黙っていないでしょうね。

たまにですが、中核派革マル派の方が撒いたらしきビラ(チラシというほうが分かりやすい?)が、無人の教室にありました。おそらく学外から来て、昼休みにこっそり置き、次の授業に出る学生がそれを見る、ということなんでしょう。ご存知の方も多いと思いますが、解放派独裁の神奈川大学において、革マル派は相当に警戒してビビりながら置きビラをするはずですが、中核派の方は案外あまり警戒せずにおおらかに置きビラをしていたのではないか思われます。中核派らしいと言えば、中核派らしい、と。

警戒心に欠ける中核派の方は、解放派の学生に見つかり、ぼこぼこにされたなんて話しもありました。解放派の学生が自慢げにしゃべっていたのでたぶん本当のことなのでしょう。「あいつ横浜国大の奴だよ」とか言ってました。

ちなみに、革マル派だったらぼこぼこでは済まないですからね。

しかし、民青が学生自治会の主導権を持っていたら、ノンセクトはいじめられるパターンですね。日本共産党は、ジャンル分け的に「旧左翼」ですから。

だいたい、このような感じでしょうか。

80年代中盤にしては、相対的にみて、それなりに様々なグループが割拠している大学であった、ということが言えると思います。

なんか面倒くさいですね(笑)。

それと、これは運動グループか私は分かりませんが、「高麗(こりょ)」という在日の学生が集うサークル(?)がありました。すいません、総連系か民団系か、今となっては思い出せません。たしか、学内で勉強会をやっていたりしました。

しかし、学内の学生運動グループに対しては非常に冷ややかだったようです。

彼らがあまり接点を持ちたくなかった理由は、「日本人の運動に利用されたくなかった」からではないか?と想像します。チョン・ドファン大統領来日、光州蜂起など、1980年代前半~中盤の日本の新左翼運動・学生運動は、朝鮮半島情勢に大きな思いを寄せていました。しかし、在日の彼らは、結局当事者たりえない日本人に対して違和感を持っていたのではないでしょうか?

このこと。つまり当事者ではない、という問題提起は、当時の社会運動のあらゆるところに真剣にかんがえなければならない課題としてありました。

例えば三里塚闘争では、当事者である農民と、集会や援農(農民の農業を手伝うこと)を目的に現地を訪れる外部の人間。この違い。

なかなか難解なこの課題は、結果として運動の衰退を招いたと考えます。

 

追記 今回リンクを貼らせていただきました有坂賢吾様のサイトは、当時を知るための素晴らしい資料が収められてろます。ありがとうございます。https://sites.google.com/site/nagato0326/home/index