80年代を記録しておきましょう -神奈川大学 02

サークルBOX

先日、ひさかたぶりに神奈川大学に行ってまいりました。白楽駅がきれいになっていて驚きましたが、大学もすごくきれいになっていて、なんだかつまらないな、と思ってしまいました。

敷地を囲っていた壁もほとんどが撤去されていました。分かる人は分かると思いますが、まるでベルリンの壁崩壊のような…。守衛所も少なくなっていましたしね。

聞いた話では、1980年、学生運動により学費値上げ白紙撤回を勝ち取り、その後長い間、値上げができない状況が続いていたそうです。私学の中でもそうとうな安いレベルにあったようですが、学校当局による全学自治会の廃止に伴い、一気に上がったとか。

この値上げとあいまって設備の充実も図られたのでしょう。学生にとっては(というより、学校当局にとっては、か)よいことかもしれません。

ちなみに、当時は横浜キャンパスしかありませんでした。また現在では、Ⅱ部(夜間部)は廃止になってると思います。

さて、「ボックス」の話しです。ボックスとは、学生が自由に使える部室のことです。

たぶん、現在の1号館から10号館が、塀に囲まれている内側にある建物で、それ以外は公道を隔てて外側にあったと思います。

80年代初頭(70年代後半?)くらいまでは、この塀の中に全てのボックスがあったのですが、学舎の拡張計画(裏には、学内のボックスを塀の外に出そう、という大学当局の思惑があったのでしょう)に伴って、6号館内にあったボックスが現在の23号館のあたりに移転させられたと聞いております。

以下、80年代中頃のおおよそのボックス位置と、政治色のある団体もしくはサークルの入居状況です。

10号館地下&2階…解放派の拠点でした。「全学自治会」「社会思想研究会」「新聞会」「部落解放研究会」等がそれぞれ1つずつ部屋を持っていたと思います。それ以外も含めて合計6~7部屋を独占していたのではないでしょうか?

8号館2階…Ⅱ部(夜間部)自治会である「学友会」が2階の1室に入居していました。彼らはノンセンクトで黒ヘルです。「夜の戦線」という名称の機関紙をもっていました。

6号館のヨコ…サークル長屋と言われるボックスがありました。ここにはごくごく普通の大学公認のサークルが入っていましたが、社会科学研究会、中国研究会、エスペラント研究会、Ⅱ部劇団という、ひとくせもふたくせもありそうなサークルもありました。

7号館地下…解放派系の全学自治会が仕切る大学祭実行委員会のボックスが2部屋ありました。

3号館地下…Ⅱ部自治会「学友会」の仕切る分裂大学祭(この名称についてはまたどこかで記録します)実行委員会のボックスが1部屋ありました。

3号館ワキ……Ⅱ部学生のサークル連絡会議(名称があいまい)や音楽系サークルのボックスがありました。

ここまでが塀の中です。

23号館周辺…今の建物が建つ前、このあたりにプレハブっぽいサークルボックス棟があり、学生法学会が2室持っていました。

そして、生協です。神奈川大学生活協同組合。19号館ですね。現在の生協はどうか知りませんが、当時はそれなりに意識のある学生が生協の運営に携わっていたようです。

特に10号館は解放派の拠点ということもあって、とても風流な(笑)雰囲気でした。政治スローガンが廊下の壁にペンキで大書きされ、ビラが無数に貼ってあり、なんとなく薄暗く、とても好きな空間でした。私の嫌いな「バブリー学生」にとっては近寄りがたい場所であり、一種独特の雰囲気があったのです。

法政大学の学生会館、京都大学西部講堂学生寮は当時有名でしたが、学生の自治空間というものが確かに神奈川大学にもあったのです。大学の敷地内にあるにも関わらず、大学当局が立ち入れない(立ち入りづらい)場所です。当時の大学職員はきっとやりきれない思いも抱えていたと想像します。

ただ、こうも思います。当時、本来の学生自治ということにこだわり、学生生活に対して、学生という立場で、学生全体に貢献しようと活動していたのは、Ⅱ部学友会だけだったような気がします。

Ⅱ部はサークル連絡会議という組織が機能しており、学友会とある程度共同歩調をとりながら、学内問題にも取り組んでいました。音楽系サークルや演劇サークルなども積極的に関わりを持っていたようです。

一方(対比するわけではないのですが)、昼間部は青ヘルの解放派という学外政治勢力の出先でもある全学自治会が実権を握っていましたし、バブリーに浮かれる学生ばかりで、学生自治のための明確な運動はなかったように思います。唯一学祭ぐらいでしょうか、いろいろなサークルが一緒になって何かを作り上げていたのは。ただし、この大学祭も解放派の仕切りでしたが。