80年代を記録しておきましょう -神奈川大学 05

闘争課題2

 

日本では過去に、原子力エネルギーから離れるための教訓を与えられたことが何度もあったと思います。1945年の原爆投下。1984年のチェルノブイリ。1999年の茨城県・東海原発。そして2011年、福島…。

1984年には、反原発行動で代々木公園に40万人(?)の市民が集まったと言われています。なんと中核派革マル派の各隊列が隣同士でちょこんと座っていたという噓のようなこともあったとか。本当かな。

以下、記憶だけで書いてますので、間違っていたらごめんなさい。

上記の反原発行動の後、横須賀も反原発運動の現場になった記憶があります。原子力発電のプルトニウム燃料が横須賀港から各地に運ばれていたため、市民団体が中心となり、その運搬車両に嫌がらせを行っていました。しかし、世論は最終的なところまで盛り上がりませんでした。

神奈川大学では、県内ということもあり、運搬車両に嫌がらせをする運動に関わっていた奇特な学生も数名おり、学内でも反原発を訴えていました。

なぜ、奇特な学生か?

バブルご愛好のDCブランドバカばかりな学生の中にあって、そりゃ、奇特でしょ。なんども本ブログ内で繰り返していますが、そういう奇特な学生は、白い眼で見られ、クズ扱いです。人間のクズ。資本主義的生産性のないバカ。批判ばかりのアホども。

1984年に、ソ連(ロシア)で起きたことを自分のこととして省みようとしなかった日本人。尊敬しますね。すごいです。そのセンスは抜群です。当時は「ソ連ざまあみろ」なんて平気で言っている日本人もたくさんいました、ほんとに。

(すいません、私は共産主義とか社会主義を信奉しておりません。ねんのため)

日本で起きた未曾有の事態に対し、ソ連(ロシア)から「日本ざまあみろ」と言われている気がしてしかたないのはわたしだけでしょうか。万事、OKです。因果応報なので、それ自体はとても正しい関係性のあり方です。

そういえば、北朝鮮の脅威、中国の脅威なんて、ことさら強調する論調がありますが、これもすごいです。さすが日本人。かれらの鼻先で、日本も仲良しのある国の世界最高峰の軍隊が軍事訓練をして、中国や北朝鮮の市井の人たちにこの上ない恐怖を与えておいて、いざ逆の立場になると、ギャンギャン、ワンワン!!いや~、さすが日本人。心から尊敬の対象と言えます。

さてさて、1980年代のあのころにかえれるとしたら、、、。原発を推進している勢力に対し、DCバカ学生も一緒になって明確なアンチを唱えていれば、今日のような事態にはならなかったかもしれない。(しかし違う形で何かあったかもしれないがね)で、未曾有の事態が起きてから政府の責任とか、東電ふざけるな、とかいう世論。

すごい、さすが日本人です。いまや、世界中から尊敬されています。自分自身を省みないことの人格的な優秀さ。私は日本人であることを誇りに思います。

私は、徹底的に「優秀な皆さん」を尊敬します。

「政府は無責任。子供の体が心配でたまらない。こういう世の中に誰がしたの?自民党?」。間違いなく、あなたです、私です。

つぎのはじまり ロックなもの 03

1980.11.15-16/ELECTRIC CIRCUIT for ストリートシンジケート

 

伝説(笑)のオールナイトライブです。

本当に当時いろいろあった思いますが、学生の自主管理によってかちとった空間があったからこそ実現した企画なのではないか、と想像します。その後、解放派の分裂によって、この空間は亡きものとなるのですが。

築き上げたものが、本当に貴重なものが、泡のように消える。セクト主義のなんとバカバカしいことか。

ただ、セクト主義は決して特別なものではなく、似たような事や物は、いまも日常生活の中にいくらでも転がっています。

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当日配布されたパンフレットです。

最終ページには「INU(犬)は、メンバーが病気の為、出演が不可能になりました。悪しからず」との記載。

80年代を記録しておきましょう -神奈川大学 04

闘争課題1

 

「闘争課題」、この表現の仕方は正しくないように思いますが、いちおう、これでいきます。

神奈川大学学生運動グループが取り組んでいた学内問題や社会問題ですね。

学内問題、、、ない!(笑)。というか、あまり覚えていません。

学外のほうが多かった気がします。なぜだ!?

本来、やはり学内の問題にウエートを置くべきなのではないでしょうか、学生の本分としては。

私はこう考えます。先輩方、いわゆる全共闘以降の動きになると思いますが、基本的な部分はほぼ解決してくれていたのではないかな、と思います。さすが神大の先輩たちです。

神奈川大学全共闘の資料を拝見したことがあります。「米田体制打倒!」とか書いてあり、日大ほどではなかったと思いますが、右翼学生のテロとかもその当時はあったと聞きます。そのような中で、反帝学評(解放派の学生組織)を中心に相当頑張って手に入れた学園民主化だったのだと思います。

1960年代の後半の神奈川大学民主化闘争の中で、応援団が(おそらく右翼学生と一体となって)学生運動つぶしに動いたことから、80年代当時でさえも「応援団」は禁止されていました。

なんだか、応援指導部とか、たしかそんな名前でしたね。かわいそう。

繰り返しますが、そのような先輩方の体を張った戦いが、自由な校風を育んだのでしょう。自由っていうのも、まあとらえ方ですけどね。

学内問題といえば、Ⅱ部学友会が大学側の規制や各種対応について色々と批判し、定期的に学生課の窓口に行って交渉を繰り返していました。その姿は鮮明です。「お~やっとる!」って感じです。

あと、19号館問題。「サークルボックス」の記事でも述べた、いわゆる部室の学外移転の問題。

大学当局はうっとおしい自治会やサークル等を学外に追い出したいと思っていましたから。でも、結局大学生協がどういう経緯かは知りませんが、正門横からこの裏門はじの19号館に移転し、批判をあびていました。まあ、生協はたくさんの職員を抱えていたし、背負っているものが違いすぎるから、大学側との妥協点を見つけるのは当然でしょう。

それと原理研究会の公然登場ですかね。あの頃、統一協会(教会、ではありません)の学生組織である原理研究会は、各大学キャンパスへの食い込みを狙っていました。もっとソフトにやればいいものを、大学当局と一体となって、学生運動つぶしの片棒を担ぐようなこともやっていました。

明確に反共を掲げる勝共連合とか、そういう右翼的な政治団体とも一体でしたし。

神奈川大学には、この勝共連合の幹部と言われたK教授という人がいました。K教授が学長選に出馬すること、そして、原理研究会を学内に手引きしていること、さらに原理研が学内で講演会を開催することなど、1987年はキャンパスが燃えました。久々の機動隊導入。また、これは別の項で詳しくですね。

学内問題はこういう感じでしょうか、、、。

学外では、三里塚、狭山、国鉄民営化、寄場、天皇パレスチナなどの新左翼らしい話題から、反核・反原発環境保護スパイ防止法など市民運動系など幅広い課題がありました。が、後の、若者が「仕事よこせ!」とサウンドデモで闊歩するようなはなかったと思います。まだまだ、バブバブでよい時代です。

1985年、中核派が主体となった三里塚闘争のいわゆる「10・20」と、反国鉄民営化反対の浅草橋駅襲撃はかなりのインパクトがありました。私は、けっこう興味本位で「おっーーー!すっげーーー!!」とか思って見ていました。国鉄民営化によって、多くの労働者が職場を追われました。国鉄当局に反抗的な組合に所属する労働者がビシビシきられていったと聞いています。

それと狭山闘争です。1963年、被差別部落に住む青年が、埼玉県狭山市で起きた誘拐・殺害事件によってでっちあげ逮捕された問題。警察の取り調べで「やったことを認めれば、懲役で済む」と騙され、“自白”した結果、裁判では死刑判決を言い渡されたという事件です。裁判の透明化が必要、なんてことはこのころからずっと言われていることですね。この青年を犯人に仕立て上げようという警察の見込み捜査は、相当ひどいものがあったようです。

また、東京・山谷で、日雇労働者組合の指導的立場の方が右翼・暴力団に刺され、また銃撃され亡くなられたということもありました。“日の丸か!?、赤旗か!?”と、究極に突き詰めた戦いが日本にもあったのです。

そして、1989年の昭和天皇崩御が、1つの頂点であったのだと思います。

1987年の沖縄国体の際、地元民が日の丸を焼き払い、大きな話題となりました。

そこから連なっていった天皇崩御です。

そして、1991年のソ連崩壊ですね。

まあ、バブルに浮かれる裏で、現実的には死ぬほどたくさん考えなければならない問題が横たわっていて、われら日本人はたくさんそれを見過ごした、ということでしょうか。

80年代を記録しておきましょう -神奈川大学 03

学内勢力図

 

やはりこれですね(笑)。

※筆者註=以下、おおむね「解放派」は「解放派・狭間派」を指し、「労対派」は「解放派・労対派」を指します。

すべてが学生運動とは言い難い面もありますが、「学友に対して自分達の考え方を訴え、大学の何かを変えようとすること」が学生運動と定義すれば、様々な学生運動グループが存在していたことは事実です。

すでに記述しているように、まず解放派の皆さんが全学自治会を掌握し、まあ恐怖政治を行っていました。恐怖政治といっても、この時期は自分たちと思想信条が違うグループに対し、あからさまに嫌がらせをしたり、暴力を振るったりということは無かったと思います。まあ、統一協会/原理研の諸君はかなり殴られていたみたいですけどね、これは当然。

しかし一方、他のグループもいちおう解放派の存在をすごく気にしていました。「それについてはアオカイ(青ヘルの解放派の意味)に文句言われそうだし、控えとこうか」という雰囲気がありました。自粛ですね。

たとえば三里塚闘争については、解放派は北原事務局長のグループを支援していましたから、もう一方の熱田代表のグループの集会に行っている、なんてことは学内では公然と言えませんでした。実際には、熱田代表が招集する集会に行っている学生はいましたが。

さらに言いますと、外部の政治勢力とつながっているグループは、他にもありました。

まず解放派の「労対派」もしくは「全協」といわれる方々。1981年に学内おいて、解放派・狭間派と解放派・労対派の激突があり、労対派が負けました。もともと同じ解放派内の争いですので、いわゆる「内々ゲバ」です。労対派(「ご老体」なので負けた、なんてギャグもありましたが)に所属する人は、この80年代中盤にも学内で目立たぬよう活動をしていました。

1981年頃の労対派グループの動きは外部サイトで確認できます。

https://sites.google.com/site/nagato0326/lsy_home/routai

神奈川大学がこの内々ゲバの主戦場であったことがはっきりと分かります。

また、毛沢東派の方々。これは書いていいですかね、中国研究会ですね。いかにもわかりやすい。

それと日本共産党の民主青年同盟、略称「民青」。これは社会科学研究会です。

あくまで当時の話です。いま学内に同名のサークルが、あるかないか分かりませんが、もう30年以上経過しているので、当時とは関係ないはずです。念のため。

そして、「ノンセクト」と呼ばれる方々。外部の政治党派等の指導を受けず、独立独歩のグループです。Ⅱ部学友会(夜の戦線)、学生法学会、Ⅱ部サークル連絡会議、という感じですか。この3チームは共に、横浜寿町の日雇い労働者の労働組合と接点を持っていたようです。

ノンセクトは上部団体を持たないため、党派の皆さんにいじめられやすいです。まあヤクザの世界と同じでしょうか。チンピラ(→ノンセクト)は本職のヤクザ(→解放派)と比べ格下、みたいな。

もう少し言うと、Aという政治グループは、A以外の政治グループが学内にいることを極端に嫌うわけですが、ノンセクトはいわばアマチュアですから、解放派も多目に見ていました。それと、解放派神奈川大学ノンセクトも、大きなジャンル分けでは、「新左翼」と呼ばれる同じ穴のムジナです。そういうこともノンセクトがある程度は、自由に動ける要因だったのでしょう。

ただ、社会科学研究会(日本共産党)や中国研究会(毛派)、それ以外の大きな政治勢力が真剣に学内に登場しようとしていたのであれば、きっと解放派の諸君も黙っていないでしょうね。

たまにですが、中核派革マル派の方が撒いたらしきビラ(チラシというほうが分かりやすい?)が、無人の教室にありました。おそらく学外から来て、昼休みにこっそり置き、次の授業に出る学生がそれを見る、ということなんでしょう。ご存知の方も多いと思いますが、解放派独裁の神奈川大学において、革マル派は相当に警戒してビビりながら置きビラをするはずですが、中核派の方は案外あまり警戒せずにおおらかに置きビラをしていたのではないか思われます。中核派らしいと言えば、中核派らしい、と。

警戒心に欠ける中核派の方は、解放派の学生に見つかり、ぼこぼこにされたなんて話しもありました。解放派の学生が自慢げにしゃべっていたのでたぶん本当のことなのでしょう。「あいつ横浜国大の奴だよ」とか言ってました。

ちなみに、革マル派だったらぼこぼこでは済まないですからね。

しかし、民青が学生自治会の主導権を持っていたら、ノンセクトはいじめられるパターンですね。日本共産党は、ジャンル分け的に「旧左翼」ですから。

だいたい、このような感じでしょうか。

80年代中盤にしては、相対的にみて、それなりに様々なグループが割拠している大学であった、ということが言えると思います。

なんか面倒くさいですね(笑)。

それと、これは運動グループか私は分かりませんが、「高麗(こりょ)」という在日の学生が集うサークル(?)がありました。すいません、総連系か民団系か、今となっては思い出せません。たしか、学内で勉強会をやっていたりしました。

しかし、学内の学生運動グループに対しては非常に冷ややかだったようです。

彼らがあまり接点を持ちたくなかった理由は、「日本人の運動に利用されたくなかった」からではないか?と想像します。チョン・ドファン大統領来日、光州蜂起など、1980年代前半~中盤の日本の新左翼運動・学生運動は、朝鮮半島情勢に大きな思いを寄せていました。しかし、在日の彼らは、結局当事者たりえない日本人に対して違和感を持っていたのではないでしょうか?

このこと。つまり当事者ではない、という問題提起は、当時の社会運動のあらゆるところに真剣にかんがえなければならない課題としてありました。

例えば三里塚闘争では、当事者である農民と、集会や援農(農民の農業を手伝うこと)を目的に現地を訪れる外部の人間。この違い。

なかなか難解なこの課題は、結果として運動の衰退を招いたと考えます。

 

追記 今回リンクを貼らせていただきました有坂賢吾様のサイトは、当時を知るための素晴らしい資料が収められてろます。ありがとうございます。https://sites.google.com/site/nagato0326/home/index

つぎのはじまり ロックなもの 02

1980.05.31/神奈川大学あやめ祭/泉谷しげる

▶ライブチラシです

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前回紹介したPASS TOURの約1週間後に、同じ神奈川大学で開催された泉谷のライブです。「あやめ祭」は春に行われる新入生歓迎のためのミニ学園祭です。

泉谷は60年代の“生き残り”ですが、この頃、後につながる新たなコンセプトによる活動を進め、一定の存在感を示していました。

アルバム「80のバラッド」は大して売れなかったと思いますが、裸の街、は今きいてもビリビリきます。アジア地域の若者が、外国人研修制度で日本に来て、使い捨てられてしまう情景を思ってしまいます。

 

80のバラッド

80のバラッド

  • アーティスト:泉谷しげる
  • 発売日: 1991/11/28
  • メディア: CD
 

 

 

 

 

80年代を記録しておきましょう -神奈川大学 02

サークルBOX

先日、ひさかたぶりに神奈川大学に行ってまいりました。白楽駅がきれいになっていて驚きましたが、大学もすごくきれいになっていて、なんだかつまらないな、と思ってしまいました。

敷地を囲っていた壁もほとんどが撤去されていました。分かる人は分かると思いますが、まるでベルリンの壁崩壊のような…。守衛所も少なくなっていましたしね。

聞いた話では、1980年、学生運動により学費値上げ白紙撤回を勝ち取り、その後長い間、値上げができない状況が続いていたそうです。私学の中でもそうとうな安いレベルにあったようですが、学校当局による全学自治会の廃止に伴い、一気に上がったとか。

この値上げとあいまって設備の充実も図られたのでしょう。学生にとっては(というより、学校当局にとっては、か)よいことかもしれません。

ちなみに、当時は横浜キャンパスしかありませんでした。また現在では、Ⅱ部(夜間部)は廃止になってると思います。

さて、「ボックス」の話しです。ボックスとは、学生が自由に使える部室のことです。

たぶん、現在の1号館から10号館が、塀に囲まれている内側にある建物で、それ以外は公道を隔てて外側にあったと思います。

80年代初頭(70年代後半?)くらいまでは、この塀の中に全てのボックスがあったのですが、学舎の拡張計画(裏には、学内のボックスを塀の外に出そう、という大学当局の思惑があったのでしょう)に伴って、6号館内にあったボックスが現在の23号館のあたりに移転させられたと聞いております。

以下、80年代中頃のおおよそのボックス位置と、政治色のある団体もしくはサークルの入居状況です。

10号館地下&2階…解放派の拠点でした。「全学自治会」「社会思想研究会」「新聞会」「部落解放研究会」等がそれぞれ1つずつ部屋を持っていたと思います。それ以外も含めて合計6~7部屋を独占していたのではないでしょうか?

8号館2階…Ⅱ部(夜間部)自治会である「学友会」が2階の1室に入居していました。彼らはノンセンクトで黒ヘルです。「夜の戦線」という名称の機関紙をもっていました。

6号館のヨコ…サークル長屋と言われるボックスがありました。ここにはごくごく普通の大学公認のサークルが入っていましたが、社会科学研究会、中国研究会、エスペラント研究会、Ⅱ部劇団という、ひとくせもふたくせもありそうなサークルもありました。

7号館地下…解放派系の全学自治会が仕切る大学祭実行委員会のボックスが2部屋ありました。

3号館地下…Ⅱ部自治会「学友会」の仕切る分裂大学祭(この名称についてはまたどこかで記録します)実行委員会のボックスが1部屋ありました。

3号館ワキ……Ⅱ部学生のサークル連絡会議(名称があいまい)や音楽系サークルのボックスがありました。

ここまでが塀の中です。

23号館周辺…今の建物が建つ前、このあたりにプレハブっぽいサークルボックス棟があり、学生法学会が2室持っていました。

そして、生協です。神奈川大学生活協同組合。19号館ですね。現在の生協はどうか知りませんが、当時はそれなりに意識のある学生が生協の運営に携わっていたようです。

特に10号館は解放派の拠点ということもあって、とても風流な(笑)雰囲気でした。政治スローガンが廊下の壁にペンキで大書きされ、ビラが無数に貼ってあり、なんとなく薄暗く、とても好きな空間でした。私の嫌いな「バブリー学生」にとっては近寄りがたい場所であり、一種独特の雰囲気があったのです。

法政大学の学生会館、京都大学西部講堂学生寮は当時有名でしたが、学生の自治空間というものが確かに神奈川大学にもあったのです。大学の敷地内にあるにも関わらず、大学当局が立ち入れない(立ち入りづらい)場所です。当時の大学職員はきっとやりきれない思いも抱えていたと想像します。

ただ、こうも思います。当時、本来の学生自治ということにこだわり、学生生活に対して、学生という立場で、学生全体に貢献しようと活動していたのは、Ⅱ部学友会だけだったような気がします。

Ⅱ部はサークル連絡会議という組織が機能しており、学友会とある程度共同歩調をとりながら、学内問題にも取り組んでいました。音楽系サークルや演劇サークルなども積極的に関わりを持っていたようです。

一方(対比するわけではないのですが)、昼間部は青ヘルの解放派という学外政治勢力の出先でもある全学自治会が実権を握っていましたし、バブリーに浮かれる学生ばかりで、学生自治のための明確な運動はなかったように思います。唯一学祭ぐらいでしょうか、いろいろなサークルが一緒になって何かを作り上げていたのは。ただし、この大学祭も解放派の仕切りでしたが。

つぎのはじまり ロックなもの 01

1980.05.25/PASS TOUR/FRICTION,突然段ボール,BOYS BOYS,吉野大作

神奈川大学構内に掲示されたチラシです

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 神奈川大学での学生による自治活動は、文化運動の分野でも花開いていました。

学生運動とロック的なものが結びつき、先鋭的で刺激的なイベントが多数行われいたようです。大学経営と学生自治の緊張関係の中で、学生側が勝ち取ったものであり、それを守り抜いてきたという点は軽く見れません。

1984年から始まる悪名高き臨教審。その前夜というシチュエーション。全国ではその後、権利を放棄する骨抜き化状況がどんどん進みます。厳しい言い方ですが、学生達は継承せず、放棄したのです。大人の世界、仕事の世界では、放棄した瞬間に死にます、今ならそれが分かります。

この時のFRICTINのライブ音源は現在もCDで聞くことができます。 

 

ライヴ PASSツアー1980(紙ジャケット仕様)

ライヴ PASSツアー1980(紙ジャケット仕様)

  • アーティスト:FRICTION
  • 発売日: 2007/12/05
  • メディア: CD